Eberron Under the Glass 10/04/2004

アーティファクトの探索

ショーン・K・レイノルズ


 

「エベロン・アンダー・ザ・グラス」へようこそ。ここはいつも遊んでいるD&Dがエベロンではどう変わるか、という点について述べるコラムである。キャラクター達はいつものように、例えば失われたアーティファクトを探索しなくてはならなかったり、古文書から知識をあさったり、はたまたゴブリン達の暴動に対処しなければならなかったりするわけだが、エベロンではこれらがみな多少違った風に行われることになる。本シリーズは、エベロンで遊ぶプレイヤーやDMの皆さんがこの世界における「それらしさ」を理解する一助となるはずだ。

この最初の記事では「失われたアーティファクト」がエベロンのキャンペーンでどのように異なった役割を果たすかを見て行く事にする。

 

あなたにとっての"アーティファクト"

典型的なキャンペーンでは通常アーティファクト(或いは神の力を宿したアイテムとか古代の遺物とか)は非常に古くて強力な魔法のアイテムであり、しばしば望ましからざる力をも持っている。ひとたびアーティファクトの噂が流れれば冒険者はそれを見つけ出すために勇躍探索に乗り出す。それは自分たちのためかもしれないし、或いは教会、ギルド、政府と言った別のグループのためでもあるかもしれない。そして首尾よくそれを手に入れれば、(例えそれを売って大金が手に入るとしても)冒険者は自らの手に余る力であるそれを持ちつづける誘惑にしばしば駆られる(そしてアーティファクトの呪いに冒され、その選択を悔いる羽目になるかもしれない)。

エベロンのキャンペーンでは幾つかの要素がアーティファクトの探索を異なったものにしている。

アーティファクトは新しいものかもしれない:ここで言う「新しい」は相対的な表現である。最終戦争で用いられた多くの強力かつ貴重なアイテムが戦いや破壊活動、モンスターの略奪、あるいはモーンランドの誕生によって失われた。エベロンにおけるアーティファクトは一千年前の古代帝国において失われた製法によって作られたものではなく、むしろたった十年前に作り出されたアイテムかもしれないのである。それを見たり、或いは使用しさえした人々がまだ生きているかも知れず、彼らはそれを取り戻したがったり、失われたままにしておきたがったりする。アーティファクトが最近のものであればあるほどそれを知っているものも多く、手に入れようとするライバルの数も多い事になる。

アーティファクトは機械的なものであるかもしれない:技術と魔法が混在する世界ではアーティファクトは技術によって作られたものであったり、より巨大なアイテムの一部であったりするかもしれない。ただ、これによって技術の発展を促す必要は無い。例えば古いライトニング・レイルの車体制御装置はオリエン氏族にとって貴重なアーティファクトだし、カニス氏族とロード・オブ・ブレードは未完成のウォーフォージド・タイタンの頭部を欲しがっていることだろう。アーティファクト探索の為に非魔法的な技術を設定したり、魔法的なものから翻案する事を躊躇うべきではない。

アーティファクトは冒険の役には立たないかもしれない:エベロン・ワールド・ガイドで説明されたり存在が明かされたりしている多くのものは、それを必要とする人々にとっては恐ろしく貴重なものであるが、冒険者からしてみれば使いでのあるものではない。PC達がこうした物品を手元に置いておきたいと思わせるようなものは殆ど無く、それを欲しがる人々に引き渡すことを強制する必要は恐らくないはずだ。例えば自分たち専用のライトニングレイルを作ろうとする(オリエン氏族を敵に回す上に莫大な研究費用と時間がかかる)のでもない限り、前述の車体制御装置などは冒険者達にとって全く価値の無い物だろう。完全であるにもかかわらず動かないウォーフォージドの肉体はPCにとっては肉体のスペアという以上の意味は持たないが、秘密の創造炉を持っていたり、こうしたまっさらの肉体に魂を吹き込む術を知っている誰かにとっては非常に有益な物となり得る。キャラクターが自分達用の路線を作ろうと計画しているのでもないかぎり、回収した導線石の山など何の役にも立たない――どころか、互いに反発するそれらの特性の為に持ち運びにくいことこの上ないだろう。

これは別にエベロンにおけるアーティファクト探索が常にPCたち自身にとっては何の価値も無いものの探索である、ということを言いたいわけではない。手に余る力に翻弄される冒険者、というテーマはエキサイティングで、ひょっとしたら悲劇的な冒険を作ることができる。しかしながら「冒険者にとっては無価値」なアイテムを使用することで、パワーバランスを崩す事無く低レベルのPC達に(本来高レベル向けの)そうした探索を行わせることができるのである。

誰もが疑わしい:エベロンの信仰呪文使いは属性の制限が無いため、善属性の教会に属する悪属性の人物がプレイヤーの探し出したアーティファクトを手にする、といった事は充分ありえる。普通のキャンペーンであれば善なる教会の司祭は善である――結局のところ、そうでなければ善なる神の司祭ではありえない。エベロンではドル・アラーの悪属性の司祭がサイオニクス・アーティファクトで都市全てを支配し、住民の自由意志を代償として犯罪と不和の根絶を目論むかもしれない(ドル・アラーは自己犠牲の女神であり、世界全体の善をもたらすためであれば犠牲も許容する。そのため、全く堕落した考えであるとまでは言えないのだ)。この司祭は犯罪を防ぎ、争いを無くすためにサイオニクスの力を用いると説明するかもしれないが、心を読み、操るというその手段に関しては言及しないだろう。「善なる」後援者の依頼だからと言ってそれだけでは必ずしも善なる意図をもって持ちかけられた依頼だとは限らないし、探索の成功が良い結果を生むとも限らないのである。

エベロンのアーティファクトは必ずしも地下何マイルもの深さの洞窟の奥の玉座に座る、しなびた骸骨に握られたほこりの積もった骨董品であるわけではない。去年積もった雪の下にアーティファクトが埋まっている事だってあるし、世俗的であると同時に驚異的であることもある。そして、冒険者が軍隊を蹴散らす役に立つとも限らなければ、世界の破滅を目論む邪悪な教団の手に落ちる必要も無い。アーティファクトの探索(或いはエベロン・ワールドガイドで言うような「ゴミ漁り」)をテーマにして冒険を行うとき、あなたがいかなる先入観を持っているか考え、それを上手く一ひねりして欲しい。一方あなたがプレイヤーであるなら、アーティファクトがどう言うものであるべきか、あるいはそれを欲しがる人々がどうあるべきかという先入観に囚われず、柔軟な視点でDMの紡ぐ物語を楽しんで欲しい。